会社概要
ごあいさつ
はじめまして。私の経歴は、情報通信業の会社員が出発です。
20代後半にネット通販の起業をきっかけに、マーケティング、接客を学び、専門領域の聞き茶を通し感性を磨きました。その経験が、「企画」「ディレクション」「UI・UXデザイン」といったスキルにつながっていると思います。一番は小さな路面店ながら、たくさんの方々に出会えたこと。信頼を得るまでに、仕事や趣味、人生観を知り、その方の「昔」と「今」がつながったとき、その人らしさが見えることを学びました。これからも学びをしつつ、人と社会をつなぐ、サイトづくりを続けていこうと思います。
小坂忠士
沿革
創業者小坂武は丁稚奉公し、現平和島にて食品卸売業を始める。
商品差別化を図るため北海道まで出向き、商品を発掘。父の話だと、戦後間もない頃ですから、だいたい丸2日かかったそう。当時、戦後復興の真っ最中で、食料の安定供給が課題でした。じゃがいも・小麦・海産物などが東京へ流れていました。知り合いのお茶屋さんで大阪で創業された方も、裸一貫で産地に赴き、茶葉を譲ってもらったと聞いたことがあります。結局、北海道から何を持ち帰ったかは不明ですが、 「足で稼ぐ商売」「差別化への執念」が会社の土台になっていることが分かりました。
また大森地区は昭和初期まで海苔漁業が盛んでした。海苔や日本茶を扱ってほしいと、酒屋さんを中心に回ったそうです。昭和30年前後の酒屋は、地域の暮らしを支える、御用聞きでした。「酒屋を通して商品を広める」のは、新しい取り組みだったのかもしれない。醤油や酢、海苔、茶葉など「常備品」を一緒に販売。奇跡的に今でも付き合いのある店が2件残っています。
その後スーパーの卸売りに参入したらしく、資材などの過剰在庫等、資金繰りに困りました。残念ながら、祖父の商売は失敗に終わり、定年まで取引のあった海苔問屋でお世話になりました。
父20才、高度成長の追い風もあり、第二幕「小売業」で業績回復。
父は馴染みの酒屋さんから誘いを受け、平和島から大森町に移転。小売店が集う城南市場に2坪のお店を構えました。そこは体格のいい父が縮こまり、お客さんが2人入れば満員御礼。店内にはお茶・海苔・しいたけ・昆布など、所狭しに飾られていた記憶が思い出されます。
城南市場には、魚屋さん・八百屋さん・肉屋さん・薬屋さん・おでん屋さん・洋菓子屋さん・酒屋さん・薬屋さんが一体となり、活気に溢れていました。今で言うショッピングモールとは違った、人のつながりそのものでした。店の前を通るごとに、店主さんが声をかけ元気をくれました。物が少なかった時代は、物々交換じゃないけど、助け合い生活と商売が同居していた。モノを買うのにお金が対価なのは当然ですが、商人はそれだけじゃないんです。人が困っていて、うちの商品で役に立つことがあればと…そんな経験をもらえたのは、ここで働いていた皆さんのおかげだと感謝しています。
父48才、入院した病院で、たまたま葬儀社の方と知り合い、少量ですが、香典返しを受注できるようになりました。
法人取引は未経験なので、父も必死でした。当初香典返しの主流は、お酒や砂糖で、薄利、マイナス覚悟で取引を続けました。葬儀社からの信用を積み重ね、ようやくお茶や海苔を扱ってもらえるように、数年後のことです。
うちの香典返しのピークは昭和50年後半~平成中盤の20年間。おそらく、生活が安定し「儀礼をきちんとすること」が社会的信用だったんだと思います。香典返しもしかり、きちんと用意することが重要視されました。家族・親族だけでなく、会社・町内会・取引先まで「弔事に参加=人付き合い」という感覚が強かったのでないでしょうか。参列者の多い葬儀ですと1000人規模もあり、冷や汗もので納品した記憶があります。
また急須が家族に1個あった時代ですから、茶葉は重宝され、消費財とし時代にマッチしたのでしょう。「夜中に荷造りして納める」ような、365日対応する環境だったので、幼少時代、旅行にいってないのは納得できます(笑)
衰退期は在庫を大量に抱えるリスクがあり、在庫調整に追われました。展示型販売・カタログギフト・スイーツへの移行・イオン・千疋屋さんなどの参入もあって、競争が激化。在庫、家賃・倉庫・車両など、経費もかさみ、わたしが縮小を決断しました。
大学時代はバイトに明け暮れました。
携帯電話・PHSの全盛期。街にはアンテナが建てられ、通信インフラの整備が急ピッチで進められた時代です。私は車運転の特技を生かし、走行しながら電波を測定する「基地局調査」の仕事を大学4年間続けました。
また、同じ頃に登場した Windows95 が社会に大きな変化をもたらしました。パソコンが一気に普及し、ワード、エクセルといったソフトウェアを使えることが「スキル」として評価されたのです。電波調査でも資料作成やデータ処理を任される機会が増え、自分の力を活かせた印象です。
ただ一方、卒業を控えた頃は「就職氷河期」と呼ばれる厳しい時代。就職が狭き門となるなか、何とか、情報通信業(基地局調査)の会社に就職できました。
当時は、ITの熱気と崩壊が入り混じる時代でした。
会社員として働いていた私は、アドビソフトを覚えたり、HTMLで情報を反映させたりと、勉強しながら、実務に活かせる環境がありました。地方出張も多く、自然に触れる機会があったのは心のバランスを取るうえでありがたかったです。
一方アメリカでは、ITバブルがはじけ、IT企業の破綻が連日ニュースをにぎわせていました。日本でも光通信やソフトバンクといった新興企業の時価総額が激減し、「ネット企業バブル崩壊」という言葉が飛び交っていました。ただ、日本の場合は携帯電話の契約数が右肩上がりで、インフラとしての通信需要は衰えず、現場の仕事が大きく揺らぐことはありませんでした。
そんな時代の中で、私自身は淡々と働きつつも、職場の空気が少しずつ変わっていくのを感じていました。特に仲の良い先輩が辞めてしまったことは大きく、居場所を失ったような気持ちになったのです。結果的に私も深く考えずに会社を辞めました。当時は「ネットで何かを始めたい」という漠然とした衝動があり、背中を押されたのかもしれません。通信業界特有の雰囲気が「次の流れを自分でつかむしかない」、そんな感情が、決断につながったように思います。
退社してからは、バイトをしながら、HTMLによるサイト構築に挑戦しました。
ちょうどIBMのホームページビルダー1が販売され、HTMLを手打ちしていた身としては、衝撃を受けたのを覚えいています。最初の注文は「杉茶」という非常にニッチなお茶でした。喜びというより「本当に注文が来るのか」という驚きを今でも覚えています。カートの概念がなく、メールで注文をとっていました。
同時期にヤフーさんがADSL機器を無料配布、回線速度が安定。ショッピングカートやクレジット決済が普及し始め、ようやくネット通販の仕組みが整いはじめた頃です。今では信じられませんが、ネット黎明期の楽天市場は月額5万円。百貨店や量販店は参入しておらず、ネット販売は「個人事業主が新しい可能性に賭ける場」でした。私は独自ドメインでサイトを構築し、広告費をかけずに商品ページを量産しました。SEOという言葉が浸透していない時代に、検索結果で上位に出ることがそのまま集客につながったのです。夢中で昼夜を忘れて取り組みました。
その後、ホリエモンや三木谷氏が登場し、メディア融合論が加速。アメリカから5年遅れで本格的なネット成長期が到来します。ヤフオクも活用しながら、「世界のお茶専門店」として約10年商いを続けました。当時の私は、経験の乏しい若手経営者。ビジネスの基盤を固めないまま、時代の潮流にのっただけで、小手先で継続できるはずがない。健康茶メインだったこともあり、リピート率が低く、ネットの売上は90%落ち込むまでになりました。このままやってもジリ貧だし、通販を続けつつ、新しい挑戦を試みました。それがプログラミング(Java)の習得です。
Javaを選んだのは偶然ではありません。当時(2000年代初頭)は、静的ページから動的なサイトへの転換期であり、PerlやCGIからより堅牢なサーバーサイド技術(JavaサーブレットやJSP)が注目されていました。eコマースは「見せる」だけでなく「運用する」段階に入り、在庫管理、受注処理、定期注文やメール配信などのバッチ処理、外部決済サービスとの連携が必須になっていたのです。Javaは型安全性とスケーラビリティの高さから企業システムで好まれており、私は「裏側を自分で作れるようになれば依存先を分散でき、商売の自動化が可能になる」と考えました。
私はJavaでデータベース接続や業務ロジックの自動化に取り組みましたが、そこでまた落とし穴がありました。技術を覚えることはできても、事業としての持続性を担保する組織力や顧客維持戦略を同時に育てなければ、技術の積み上げは成果につながらないのです。
振り返ると、この10年は「技術的な自立」と「経営的な甘さ」が同居した時期だったと思います。技術は確かに武器になります。しかし、武器を持っているだけで戦いに勝てるわけではありません。時代に応じて仕組みを変え、顧客との関係を再設計することを怠った瞬間に、潮目は変わってしまうのです。
わたしは当時、プログラミングなど、ド素人でHTML・CSSをかじった程度。何を思ったか、通販システムを自社運用することで、事業に貢献できると思い込んでいました。調査もせず、リナックスのプログラミング教室に半年通いました。SCJPという、かつてSun Microsystemsが提供していたJava言語の認定資格を取得。Javaプログラミングの基礎知識・文法・API使用法などを問うものでした。(現在はOracle)。何とかこの資格で、未経験ながら現場に派遣されました。はじめは決められた範囲のコーディングや、指示されたテストの実行を深夜まで行っていました。一番つらかったのは、アシスタントして機能しなかったこと、徐々に孤立し、つらかった。また過酷な労働環境がストレスとプレッシャーを生み、メンタル不調で退職しました。ただLAMP環境やシステムをどう支えるかという視点を知るきっかけにはなったと思います。
プログラミングの仕事はうまくいきませんでしたが、今できることを必死に考えました。幸か不幸かグーグルの検索エンジン集客は全盛で、改めてネット集客できる市場はないか調査しました。年間通しての売上を考えると、お年賀、バレンタイン、ホワイトデー、桜、母の日、父の日、お中元、帰省土産、敬老の日、いい夫婦の日、お歳暮など、ギフト市場ならお茶を投入できると推測しました。目的と年齢と性別を掛け合わせ、ティーギフトを約300個考案しました。あとはキーワード対策をしたページを施しました。準備に約1年かかりましたが、2011年の東日本大震災が起こるまで、需要を取り込むことができました。要因は、今まで茶葉を購入したことのない25~40代の層に贈り物需要としてアプローチできたことです。震災後は、他の食品同様、風評被害を受け、売上はガタ落ち。前提となるモノの個人ギフト市場鈍化も想像以上でした。本格的にSNSに取り組んでいなかったのも、大きな敗因だと思います。
ギフトサイト開設と並行して、制作業務を実験的に開始していました。はじめは近隣の方とワードやエクセルの機能を教授し合ったり、サイトづくりを手伝ったり、商店街のサポート役でした。そこから同級生の紹介で、不動産屋さんのスタートアップを任され、そこで失敗したわけですが、それをきっかけに「サイト構築」と本気で向き合うようになりました。現在、相談件数、約100件。制作事例は20業種、約50サイトです。小規模のコーポレートサイトを中心にご依頼いただいております。会社やサービスの根源を共に考え、情報視覚化するお手伝いです。またスマホ・SNS・AI活用など、メディアやツールに合わせ、提案できるようになりました。
茶葉販売は、パンデミックを機に葬儀事業はほぼ消滅。
来店が激減し、配達業務を強化。わたしと父親で近隣を回るようになりました。今考えると、毎日自転車を乗っていた(べダルをこぐ)ので、足腰が相当鍛えられました。この頃から椅子に座ることをやめました。というのも、この期間、サイト制作の依頼が急増しました。事務所にこもり、誰とも話さない日が続き、精神的に病みました。パニック障害など自律神経失調症と診断され、健康・交感神経について勉強することになります。薬を飲みながら、マインドセットを行い、2年かけて、自分を取り戻すことができました。怪我の功名といいますか、良い転機になったと思います。
店舗はビルの老朽化もあり、大森から西馬込に移転しました。
お店は2坪になりましたが、現在、店舗兼、事務所で運営しています。ホームページ制作事業を立ち上げたことで、会社が継続できています。西馬込は文士が集った、文化度合いの強い地。近隣の文化財・自然から学ぶことも多く、すごく気に入っています。小さくても新しいことに挑戦する日々。今後どうなるか分かりませんが、陽の目を見る日を夢見て~see you!